「アアナッテ、コウナッタ」~わたくしの履歴書~ 小池玲子ブログ

第41話 三番目の扉

2021.08.01

一つ目の扉を閉め、新しい気持ちで始めた二つ目の扉を閉めたのも自分が我慢できる環境の許容範囲を超えた事が理由であった。
   
仕事を続けていく上で、どうしても守らなければならないことがある。それは、自分の環境を守るということ。自分を大切にすることは、他人に対して利己的になるということでなく、自分がある程度幸せでなければ良い仕事は生まれないと私は信じている。
   
私が求める環境とは広いオフィスでも美しいインテリアでもない、それは仕事に対する心構えである。チーム全員が仕事を愛し、全力を尽くすことによってより良いものを生み出してゆく。このような情熱によって結びついたチームで仕事をしてゆきたい。これが私の考える環境である。
   
   
そして三番目の扉を開けた。
今回はヨーロッパ最大の広告代理店パブリシス。その日本支社を立ち上げる仕事であった。以前のJWTトンプソンは、典型的な歴史ある、アメリカの広告代理店。そしてFCBは流動する、新進の現代的アメリカの広告代理店であった。
  
さて、今回はどんな経験が待っているか。今まで仕事でしっかりと向き合うチャンスがなかった、フランス、新しい世界への挑戦。
   
信じられないことに、パブリシスは1927年創立、歴史は浅かったが、巨大な世界規模の企業を多くクライアントに持っていた。
   
ルノーをトップに保険会社のAXA、エアバス、歴史ある金融の大手UBS、巨大スーパーのカルフール等々、そしてその特徴は、巨大でありながら日本においては全く無名か、それとも非常に認知が低い、おまけに製品が売れていないブランドであった。
   
もちろん他にもロレアルグループやエルメスなどの有名ブランドを多々持っていたが、その多くはすでに日本にある代理店によってコントロールされていた。
  
ここに日本支社の使命は明確であった。現在他社にコントロールされているパブリシスのクライアントを奪還すること。そして巨大でありながら、日本市場では新参者のクライアントのブランドの認知を高めることであった。
   
まずはロレアルグループ。この仕事を日本において自社でコントロールすることはパブリシスの悲願であった。ロレアルを代表する看板ブランド、ランコムは日本においては、およそ20年以上マッキャン・エリクソンによってハンドルされていた。
  
ランコムとは面白い経緯があった。数年前、JWT在籍中、私と営業で当時、東京のランコムに働きかけ、JWTに仕事を移動してもらうことに成功した。これはビッグニュースであった。
   
しかし、しかし、当時のロレアルの主幹代理店であったパブリシスの社長が、パリのロレアル本部に強烈に働きかけ、一夜にして、その決定が覆ったのである。その社長が今回私を招いてくれた当人であった。
   
因縁めくが今回はパブリシスとして再びロレアルブランド奪還の戦いが始まった。これには時間がかかった。片方は日本において20年以上の付き合い、かたや私たちは全く付き合いのない新参者。この壁を乗り越え、信頼を勝ち取る必要があった。
  
2年の辛抱強いアプローチの結果、最終的にロレアルグループのすべての仕事をパブリシスが扱うこととなった。



当時提携を模索していた電通によって翻訳され出版された、
パブリシスの創立者、マルセル・ブルースタイン・ブランシェの伝記。
彼の経歴は波乱に満ちていた。当時フランスでは職業として存在しなかった広告業を始め、
戦争でのナチによる壊滅的な打撃を乗り越えて、ヨーロッパ最大の広告代理店の基礎を築いた。
戦時パリがナチスによって占領された時、イギリスに逃れ、フランス空軍のパイロットだった
経験を生かし戦闘機を操縦、ドイツ軍と戦った。
彼の名前は長いが、最後のブランシェはゲシュタポの手を逃れてイギリスに脱出するとき
使った偽名である。彼はこの名前を大切にし、生涯使った。