「アアナッテ、コウナッタ」~わたくしの履歴書~ 小池玲子ブログ

第6話 コミュニケーションの原点

2019.10.15

小学校生活の中で、子供にとって担任の先生は、親以外に、最も重要な人である。
先生の行動は、子供の大人に対する信頼感に影響を及ぼす。なぜなら子供は感性が鋭く、先生のとる矛盾した行動に対して敏感に反応するから。



小学校の6年間、クラスは一学年2クラス。担任の先生は6年間同じであった。私の担任は大学卒業したての若い先生で、名門小学校の先生として抜擢された事に対しての強い誇りがあったのだと思う。


私はこの先生に対して、常にアンビバレントな思いを抱いていた。他の級友と同じ様に、私は心の半分で先生を慕い、ほめてもらいたい、笑顔を向けてもらいたいと望んだ。しかし心の半分で、先生に対する批判が渦巻いていた。私が考える理想の大人ではないのではと。もちろん、私は成績も冴えなく、遅刻常習犯であり、忘れ物はトップであったから先生にとっては、視線の外の子であっただろう。


一方学校は教育熱心な富裕層の親で溢れ、生徒間では先生達がある特定な生徒の家で週末麻雀をしたりしている話が当たり前に話されたりしていた。ひいきという言葉はこの間知った「何々ちゃんは先生のひいき」このようにして私は世の中の不公平感を身体で感じていった。


私が作った作文や、絵に対して先生はいつも冷ややかな口調で批判した.これは私が、先生の意に添わない生徒であったかもしれないが、先生のその時の口調は幼かったわたくしの心の小さな傷となった。ただ唯一の救いは、家に持ち帰った作文や絵を父はいつも批評しほめてくれたことだ。どういう理由で良いのか、という父の批評は幼い私でも理解できたので、反面、先生の批評に対しての疑問は膨らんだ。


絵日記


3年生の時に描いた百日草の絵。

あるとき、ある出来事で、私は級友との約束を破り怒らせてしまった。暗く勉強のできない子はターゲットにされる。早速、はやしことばを作ってはやされた。はやし立てられている私の直ぐそばに先生がきたとき、その顔を見ると,先生の目は遠くを見ていて、何も見ていない。聞いていない顔であった。その顔を今でも鮮明に覚えている。


どんな優秀校でも、落ちこぼれやビリの子はいるだろう。どんな優秀校でもいじめはあるだろう。その時の教師の態度を子供は鋭く見ているのだ。これは今も変わらないと思う。
 
 
学校で唯一心が通った先生は図書館にいた女の先生であった。その先生と話していると心が和らいだし、自分を理解してくれていると思った。だから、いつも図書館にいた。本の世界に入り込んで、現実から遠ざかり、私の心は学校から離れてしまった。

  
学校への道は、大学の裏門から構内を長々と歩いて小学校にたどり着く。ただでさえ魅力のない学校は、裏門から広くて草ぼうぼうのグラウンドのそばを通り、中学校の前をすぎ、高校の横を通り...子供の足で15分はかかった。


裏門の近くに大学の植物園があった。物語にでてきそうな温室や、四角い池があり、睡蓮の花が咲いていた。その睡蓮の池に向かってランドセルを背負ったまま何時間も座っていた。その頃は登校拒否という言葉はなかったのだが、きっとその走りだったのかもしれない。ハエ取り草のピンクや、蜜蜂のブーンという音は、『学校に行かなくてもいいよ』と私にささやいた。


誕生日に姉からのプレゼントで、岩波少年少女文庫の「ほしのひとみ」を貰った。物語にひどく感激した、そしてこの素晴らしい話をぜひ級友にも知ってほしいと思った。年に一回、学年の親と生徒が体育館に集まっての懇親会があった。そうだ!ここで発表しよう。


どうやって伝えたらいいのだろうか、そうだ!紙芝居を作ろう。
話の舞台はラップランド。本には挿絵がなかったので、トナカイやソリは他の本の絵を参考にした。一番大変だったのは絵の裏に物語の文章を全て書き写すことだった。あまりの大変さに間に合わず(当時はコピーという便利なものがなかった)姉に少し手伝ってもらった。





  


紙芝居の一部。

一人で頑張って、頑張って、やっと24枚の紙芝居を作った。みんなが見ていてくれたかどうか、絵だけ見ていたという組友が多かった。けれど、私はとても満足した。


そしてこれは私にとって、初めて人にものを伝えようと決めた、いわばコミュニケーションの原点だった。