「アアナッテ、コウナッタ」~わたくしの履歴書~ 小池玲子ブログ

第13話 芸大の光と影(2)

2020.02.01

芸大に通い始めて半年も経つと入学時の高揚感は薄れ、登校のため上野駅のホームから公園口の改札に向かって階段を登る時に、ああこの階段を登るために自分は4年も費やしたのだ、という虚しさを感じるようになった。

4年間、霧がかかった状態でいた自分は、何をしていたのか。
いつも、心がそこにあるようでない状況の中で、まるで「おあずけ」の犬のように、芸大という餌を夢見ていた4年間。

もちろん広告制作を最終目標として芸大に入った私だが、芸大での4年間を広告の仕事の準備だけにしたくないという思いがあった。自分を様々な現実の中に置きたいという欲望があったのかもしれない。


結果として先輩や友達に誘われるまま、様々なアルバイトに精を出した。
カレーハウスの壁にかける装飾パネルのデザイン。浅草寺の幼稚園の絵画教室の先生。美術の予備校で夏期講習のデッサン指導。浅草橋にあったキャバレーなどの女性のドレスの布制作会社でプリント模様のデザイン。

西八王子の田舎で絹の着物のろうけつ染の仕事もした。作業所は下が土で、七輪に火を起こして鍋をかけロウを溶かすのだが、夏は暑く冬は寒かった。まさに職人の仕事。
大曲というところで、大理石のモザイクの制作にも関わった。



3年になって専攻別に別れる前に2科目のみ実習ができた。
私は染色と彫金を選んだ。染色の時のスケッチ。


そんな私に冷水を浴びせることが起こった。
就職が近くなった4年の春、広告代理店に就職し広告を製作したいという私の目標はもろくも崩れたのだ。日本の広告代理店上位10社が女性のデザイナーを募集していないことを知ったからだった。あの資生堂さえも!
さあどうしよう!


学校では、電通勤務の先輩が、伸び代があるのに入社の実技試験で完敗する後輩のため、希望者を集めて受験の技術指導を始めた。14人の同級生男子が参加した。新聞15段をそのまま鉛筆でそっくりに模写する訓練である。

私はといえば、級友4人と、ある会社の宣伝部長である大先輩から就職用に技術を磨くトレーニングを受けることとなった。「芸大生は線がまっすぐ引けない」と言われ先輩の多くは、どの会社の実技試験にも落ちてしまっていたからだった。

今はコンピューターで誰もがまっすぐに線を引くことができるが、その頃は烏口という道具や溝引きを使って線や円を描き筆で色を入れた。まず課題条件が出され、そこで図形を考え、その図形を烏口や筆をつかって表現する。



その時の課題の作品。すべて手書きの図形。








このような作業には全く慣れておらず、技術的な訓練に全く無縁な4年間のツケは重かった。一枚書き上げるのに3〜4日かかった。結果、眠る時間を削らねば課題の提出に間に合わなかった。
現在コンピューターの技術をもってすれば10分で出来る仕事かもしれない…。



卒業制作は90cm×180cmのパネル4枚に、アフリカ問題を表現した。