「アアナッテ、コウナッタ」~わたくしの履歴書~ 小池玲子ブログ

第29話 人を育てる会社

2020.11.01

1971年に入社して、1993年に退社するまでの22年間は私にとって、そのあとの道を照らす光となる知識と経験を学んだ大切な時間であった。
  
就職先がなく、外資の広告代理店に入社したこともラッキーであった。
外資の広告代理店と、日本の広告代理店は当時その成り立ちが全く異なっていた。
   
以前書いたことだが、入社した時に受けたレクチャーも、ただの会社の就業規則の説明ではなく、広告業界の中でトンプソンというブランドがどのようにして成り立ってきたかと、その理念の説明であった。なぜなら、外資の代理店がスタートする時には、そこに必ず偉大な創始者の存在があり、卓越した理論があった。
  
当時、日本の広告代理店の収入はメディア媒体を売って、手数料を取ることにあった。日本では少数の代理店が媒体を買う口座という権利を独占し、口座を持っていない会社は、持っている広告代理店からしか媒体を買うことができなかった。媒体を安く買って広告主に高く売ることが広告代理店の主な収入だったのである。
   
しかし、欧米ではメディアは5%の手数料を払えば誰にでも買うことができた。だから広告代理店の売り物は当然、クライアントの製品やサービスに対しての戦略と広告制作になったのである。
  
  
外資の広告代理店の創始者はその点で卓越した能力を持ち、クライアントを論理と広告表現で魅惑し、獲得し、企業を大きくしていった。それ故にどの代理店も戦略や制作について開発方法の確たる論理を持っていたのだ。また持っていなければ競争に勝てなかった。
 
以上の理由から、自社の論理をよく理解し、アイデアのある社員を育てることは会社の存亡に関わる。そのため社員教育には大変熱心であった。
   
トンプソンでは、2年に1回、若い社員を集めてジェームス・ウエッブ・ヤングセミナーという、2泊から3泊の合宿があった。そこでグループに別れ、テーマを与えられて企画を発表。仕事で付き合いのない者同士がチームとなり、徹夜で論議して発表する。寝不足に苦しみながらの合宿であった。
  
今後、会社をリードするであろう幹部社員向けには、サム・ミーク・セミナーがあった。これはアジア地域の社員が集められ一つのグループが一つの代理店となり、難問を解決してゆく形で、人種と言葉の壁を超えての協力体制の学ぶものであった。両方ともトンプソンの偉大な先輩の名前がつけられていた。また日常においてもトンプソンの理論であるトンプソンウエイの講習が行われた。
    

サム ミーク セミナー:私が参加したのはクアラルンプールで開かれたもの。
アジア地域7カ国から集まった同僚が5日間共に過ごした。
インドの人は頑固で自説を曲げず苦労した。

 
社内報:社内報には2種あり、一つは新入社員紹介など東京の社内の話題、
もう一つは、トンプソンウエイに関してマーケティングのトピックが掲載された。


ワールドワイドの社内報:全世界のオフィスに向けて出されていたもの。
各オフィスのトピックも載っていた。

ロンドンには社内教育の専門チームが存在して、世界各地域のセミナーを指導していた。余裕のある良き時代であった、その時代を過ごせたことに感謝である。