「アアナッテ、コウナッタ」~わたくしの履歴書~ 小池玲子ブログ

第32話 予期せぬ仕事の波

2021.01.01

制作局のトップの仕事は制作関係のみと考えていたが甘かった。予期せぬ仕事の波が襲ってきた。それは、女性の副社長が当時珍しかった時代だったので、新聞や雑誌の取材。副社長というタイトルが会社の顔として色々な会合に出席せねばならなかったこと。
      
社内に於いても、今までは外人の局長だったから、制作の上でも、できるだけパスしたり無視したりしていた人が、急に、良きにつけ、悪きにつけ私をインボルブしようとしてきたこと。

   

サリダ:1985年に男女雇用機会均等法が制定された。女性の社会進出が可能となり、それに従って女性の職場における様々な問題について、女性誌が特集を組むことも多かった。職場でいかにNOを言うかについてのインタビュー。


メディアインフォ:海外広告の専門誌に外資の広告戦略について連載した。当時、日本の企業も海外に目を向け始めていた。
  
就任した年の夏は、上智大学のサマースクールで、外人の受講生相手に広告について講義もした。もちろん英語で、今思うと一体何人の学生が私の英語を理解したか、冷や汗ものである。この忙しさが私を、様々な、ネガティブな心から出たコメントから遠ざけてくれた。
   
あまりの忙しさ、緊張ゆえか、数ケ月後に盲腸炎になり入院した。やはり自分には重責すぎるのか、と心が折れそうになった時、「神様がくれた休暇だよ。ゆっくり休養してね」と会社の親しい友人が言ってくれたのが何よりの元気づけとなった。
    
この忙しさは在任中続いた。どんなふうに忙しかったか、広告代理店という職業柄、自分たちの努力では回避できない事件が次々起こる。
   
一例を挙げると、最大のクライアントである大手洗剤メーカーが、その年の9月に新製品を出すことになっていた。前年から準備が進められ、起用したタレントは、当時ターゲットである若い女性にナンバーワンの人気を誇る歌手。やっと契約にこぎつけ、4ヶ月かけてCMの内容にOKをもらい、その歌手が指名した演出家と打ち合わせ、さあ撮影という3日前に彼女は手首を切って自殺を図った。幸い発見され大事に至らなかったが、発売三ヶ月を切った段階でスタート時点に戻ってしまったのだ。
    
彼女と同じ好感度、認知度の数字を上げられる女性を出せとのクライアントからの要求。該当する女性は当時ブルックシールズしかいなかった。やっと契約にこぎつけ、ひと安心と思うまなく、また難題が。

当時は一ドル二百四十円の時代。
撮影はNYで行う予定だったがコストがかさんだ。新任の社長がその見積もりを持って就任の挨拶がてらクライアントに行った。クライアントの社長から「1000万円安くしろ。それがお前の初仕事だ。」と言われて帰ってき、どうにかしてくれと泣きつかれた。当時の見積もりは8000万円台。1000万円は無理でもなんとか7000万円台に落とさねば。
    
それからプロダクションの担当とコストカットの相談。ブルックシールズと聞いてアメリカのプロダクションもふっかけてきている。何、リムジン3台。4日間?とんでもない。ハンディトーキー20台。え!見積書をにらんで値切りに値切って7000万台にし、泣いている新任社長に見積書を渡した。
   
NYに現地での打ち合わせのため行っているクリエーターには帰ってくるな、そこで待てと電話。なぜなら往復の飛行機代がもったいない。彼は撮影が始まるまで一週間NYで足止め。あとで散々文句を言われた。一事が万事である。
    
なんでそこまでやるのと思われるかもしれないが、何しろ頼まれた仕事は全て全力で対応した。それが何かと批判的な社内の空気を変えてくれると信じていたから。