「アアナッテ、コウナッタ」~わたくしの履歴書~ 小池玲子ブログ

第34話 日本人社長の出現

2021.02.01

私がJWTで仕事をした最後の5年間、社長は日本人であった。東京オフィス始まって以来の日本人社長であった。日本人の社長を持つことは外資に働く人の念願。心から喜ぶべきだったのだが、何か不安を感じた。
        
日本人の社長の出現は大きな変化を社内にもたらした。
       
一つは戦略部門のトップを失った。
当時JWTの戦略部門(ストラテジックプランニング)は日本の大手広告代理店より一歩先に行っていた。日本の広告代理店は大手でさえ、当時、まだこの部門は未熟で、JWTの戦略部門が出す論文や分析は日本の代理店からも注目されていた。これはアメリカの広告代理店が、頭脳で勝負するという伝統を受け継いでいたからである。
    
しかし、しかしである。
この戦略部門の副社長と新しい社長との間には長年にわたる確執があった。彼が会社を離れてしまったらJWTが持つ差別化の一端が崩れてしまう。私は危機感を抱き、新社長にさりげなく、戦略部門の長となんとかやっていけないだろうかと尋ねた。答えはNOであった。一年後戦略部門の長は最も優秀な部下を連れて去ってしまった。これは目に見える大きな損失であったと今も思っている。
     
さらにもう一つの変化が起こった。日本人の男性の特質をまざまざと見る状態が社内で起こった。今まで会社の雰囲気は、外資系ゆえ、個人的で人間関係もさっぱりしていた。そこが私のような人間が長く席を置けた要因でもあった。
        
いわゆる派閥のようなもの、社長の取り巻きが社内にできたのである。取り巻きは経理、人事の人が中心であった。ここで人事と経理の副社長が大きく会社に影響を及ぼすようになった。まさに私が大嫌いなドメスティクな日本の会社、忖度する会社になってしまったのである。
  
WPPの傘下になってから、度々人員整理があった。外から内からの変化が会社を痩せさせていくように私には感じられた。
   
12月の末に、また、会社の役員会議で各部門の人員縮小の案が出された。私のクリエイティブ部門に対して出された要求はなんと制作部のサービス部門をすべて切れという命令であった。サービス部門とは、クリエイティブをサポートする部門。なんと全員で18名。
   
JWTが、規模が小さいながらなんとか存続してきたのは、クライアントのCMをリサーチするヴィデオ部門や、外注することなく撮影できるスタジオやカメラマン、スタイリストの存在であった。
   
翌日から私は各セクションの収入を調べた。その結果スタッフの給料を差し引いても少ないながら、20,000,000円の収入があることがわかった。私は結果を持って会議に臨み、サービス部門の廃止に対してのデメリットを説明し、約1名を退職するだけの合意をとった。
    
会議の後、私は自分の部下を最小限の犠牲で守った。という高揚した気分で退社した。夜の11時、1月の凍るような北風が吹いていた。タクシーがなかなか来ない。坂の上から吹く風は容赦なく体を冷やした。
   
  
翌日から私の顔の左側の筋肉が動かなくなった。急性顔面神経麻痺この後遺症は長引き、私の顔から長い間、笑顔を奪った。


宝物のハガキJWTに在籍中はたくさんの方と知り合いになった。仕事の上で、またお酒の席で、その頃、ロケ先から、いただいたたくさんのハガキは
今も宝物である。


宣伝会議の講師宣伝会議の講師は足掛け6年ほどした。もちろんコピー制作ではなく、制作において、いかに目標を的確に掴んで表現するか、についての講義、この頃まだ一般的でなかったクリエイティブブリーフについて。